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和田商店会「八の日広告」に掲載されている、コラム「電動椅子のお姉さんより」part8です。 ※お断りしておきますが、この文章はブログでの読みやすさを考慮し、管理人が勝手に改行しています。 内容に関しては一切手を加えてておりません 今回シリーズものでしたので、完結してから載せようと思いついつい掲載が遅れてしまいましたことをお詫びいたします。 また、昨年の7月頃からの連載でしたので、少し季節がずれてしまったものが有ることをご了承下さい。 未だ続くか否か解りませんが、今回けじめの5回まで掲載させていただきます。 世田谷の青年教室その1 今は、わからないけれど、世田谷には青年教室というのがあった。地域の青年達のサークル作りを区の社会教育課が応援するというもの。いろいろな学校や職業の青年達が集まって、テニス、卓球、イベント、等いろいろあった。私が最初に入ったのは障害者のサークル、月、二回の定例会があって、それをこなすための準備会が一週間に何回かあった。 弟が結婚するまでは仕事と家事でせいぜい月、二回の定例会への出席だけしかできなかったけれど、新婚さんにはお邪魔虫だろうと思ったから、がらにもなく役員、引き受けたりもした。 そんな時に持ち上がったのが、一本化間題。昔は養護学校を卒業すると行き場がない障害者が多く、彼らが青年教室の制度を利用してサークルを作った。そうしたら上から障害者青年学級というのを作るように、という指示があり、それを、そのサークルに適応したらしい。予算としても二重だから、どちらか一つに、というわけだ。皆の意見もバラバラだったけれど、障害者の中だけは良くない、やはり青年教室として、やっていこう、ということで落ち着いた。 杉並で驚いたのは、同じ青年として、していたことが区役所の職員のお仕事になっていることでした。 世田谷の青年教室その2 区役所の職員と間違えられた友人 このあいだ、電動車いすが走行中に走行不能になって、助けてくれたのが29歳の青年。車椅子、押して貰いながら、青年教室のことを思い出していた。 青年教室として残った障害者のサークル、私は、より多くの青年に障害者のことを知って欲しくて、役員の任期中から、いろいろなサークルに行くようになった。さまざまな職業の青年達、特に元、劇団四季にいて、障害者とともに演劇のサークル作りたい、と言っていた彼にはおおいに助けられた。彼はグッドミックスと自ら命名した演劇のサークルのリーダー。さすがに元、俳優?とにかく、カッコいい、そういえぱ彼も当時29歳だったっけ、彼、目当てに集まった女の子とともに障害者サークル主催のクリスマスパーティの料理を作ってくれた。当日は大雪にもかかわらず多くの青年達が来てくれて大成功だった。 任期が終わってから行ったあるサークルで知り合った女性から、一緒にサークル作ろう、と誘われた。彼女は何か書きたい、という。でも、それだけでは人が来るだろうか?と考えて、手作りの絵本をプラスすることにした。区に適当な論師を探してもらって、合同開級式も終え、区報にも掲載、サークル初日を迎えた。 彼女は果たして、人が来てくれるだろうかと心配していたけれど、当日は彼女が驚くほどの人が来た、区役所主催の絵本教室と聞違えたらしい。まるで講師の先生のアシスタントのように動いていた彼女だった。彼女の書きたいという希望も、取り入れてふわふわ通信と命名したものも作ったのだけれど、書くことに興味を示してくれた人は少なかった。 私も含めて若い?5人ぐらいが絵本の教室が終わった後、近くの定食屋で夕食を食べながら、原稿を持ち寄り、話して、これもまた彼女が編集、印刷、配布と、大変だ。 出版社勤務の彼女だから、できたのか。絵本の教室も最後になって、集まっていた人から、てっきり区役所の方だと思っていました、だなんて言われて、かわいそうだったよ。それでも彼らから、何かプレゼントされて喜んでいたけれど。サークルの運営は、本当に大変なのです。 世田谷の青年教室その3 偶然にも旅先で 今、夏休みですが、皆様は旅行には行かれるのでしょうか? 私も元気な頃は毎年行っていました。 友人と長崎に行ったときです。演劇のサークルで知り合った長崎出身の学生で、卒業後、長崎に帰った人がいました。毎年、年賀状のやりとりはしていましたので、おぼろげながら、だいたいの住所は覚えていました。乗っていたバスがその町を通ったので、一緒にいた友人に「ここに知っている人がいる」と話して、何気なく窓の外を見ました。な、な、なんと、そこには見覚えのある、その人が歩いているではありませんか。服装も東京にいた時と変わらずに、真面目な様子で歩いていました。 彼のニックネームは「神主」でした。演劇のサークルでは、ニックネームでお互いに呼び合うことになっていましたから。下車して訪ねようか、とも思いましたが、予定外のことでしたのでやめて、予定通りの旅行をして帰ってきました。偶然というのはあるものなのですね。今でも彼との年賀状のやりとりだけはしています。 彼はニックネームの神主を長崎でしているそうです。 世田谷の青年教室その4 トイレに施錠 障害者のサークルで役員をしていたときでした。バス一台の予算が区から出ていました。皆の希望は都内、特に下町の方へ行ってみたい、ということでした。以前は区役所の職員とともに行っていた実踏(下見)でしたが、今後、青年教室として、やっていくつもりなのであれば、自分たちで行ったら、ということで、リーダーと私の二人で、行くことにしました。彼女の自動車で、私が作ったコースを廻りました。障害者用のトイレの有無、水上バスヘの草椅子での乗車の確認、時間配分、等、一通りのことはしたつもりでした。当時、他の青年教室との交流が主な役割だった 私はリーダーとのいつもはできない会話を楽しみ、当日、皆に渡すしおりの内容の分担を決めたりして、その日は楽しく別れました。後目、しおりを印刷、出来上がったしおりは、私が家に持ち帰り、保管することにしました。ところが忙しかったためか、当日は発熱してしまい、行くことができませんでした。当日の朝は、しおりの入った紙袋を持って行って、皆を見送り、家で寝ていました。電話で結果を訊いたところ、障害者用のトイレに施錠がしてあり困った、と言われました。 しまった!トイレの施錠までは見てこなかった、と深く反省。幸いにも近くに百貨店があり、そこの障害者用のトイレでなんとかなった、と言われ、ホッとしましたが……。事前にチェックしていたら、区役所から連絡して開けておいてもらえたのに、と思うと残念です。 このトイレの施錠のことは、場所が違う、とはいえ障害者区議会での私の発言の中にもあったと思います。何年も経っているのに、どうして改善されていないのか。モラルの低さから施錠せざるをえないのだとしたら、とても残念なことだと、私には思えるのですが。 世田谷の青年教室その5 それぞれの時代 このあいだ、障害者向けの区報を見ていたら、二次障害についての講演をする、と出ていた。主催者も講演者も、知っている名前。思わず「いちご白書をもう一度」のメロディを口ずさみたくなった。そういう時代に青春を過ごした人達だった。 二次障害というのは、本来持っている障害による異常な姿勢や動きにより骨の変形が20年から30年早く出てくるもの。私は、以前にも何回か、ここに書いたことがあると思う。私の場合は24才の時の首の激痛から始まっている。講演の内容は、すべて私も経験済みだった。障害者の子供を持つ母親からの質問があったので、私は自分の体験から、親亡き後を考え、兄弟に、こういうことが起こることを知らせるべきだと、アドバイスしたけれど、わかってくれただろうか。私は今も痛みと痛れに苦しんでいる。 私の激白にも似た体験談に驚いた主催者、講演者ではあるけれど、過去にどこで会ったのかが思い出せない様子。二人とも青年教室をしていた頃に知り合ったように思う。一人は、世田谷で、かなり暴れていた。もう一人は、ある人から紹介されて知り合ったけれど、会うと、彼の話は、いつも学生運動のお話だった。すぐに付き合えないという手紙を出して、バイバイしたような気がする。 当時の私はアル中の父親と寝ている祖母に大変な日々、会社も辞めたら、後がないので辞められない。とても彼の学生運動の話など聞いてはいられない。彼も当時から身体が痛いと言って、会社辞めるだのと言っていたような気がする。会社なんて、とっくに辞めて、今は知り合いの病院に勤務しているらしい。 私は限界まで会社で働いてきた。それぞれの時代、彼らは彼らなりに、そして私は私なりに生きてきた。今、同じ二次障害という苦しみの中、どうすれば、この苦しみを少しでも軽減できるのか。後に続く人々が、少しでも、この苦しみから逃れることができるのかを考えなくてはならないと私も思っている。 電動車椅子のお姉さんより |
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